聖都と呼ばれる場所から離れ、西ブロックのこの場所でネズミと一緒に暮らすようになってから、
もうどれぐらい経っただろう。


一緒に寝て食事をして、他愛のない会話をする毎日が、
紫苑の中ではもう当たり前の日常になりつつあった。
無論、No.6での生活が決して幻であった訳ではない。
あの場所での生活が、彼の根底にあるものを構築しているのは紛れもない事実だ。
だが今は、それが遠い昔の出来事に感じてしまうぐらい、ネズミと居ることが紫苑には心地が良かった。
 

貧しい食事。日々の糧を自らの手で得なければならない生活。
生活する場の衛生状態も決して良いとは言えない現状。
なのに、漫然と市への忠誠を誓うだけで美味しい食事にありつけたあの場所へ戻りたいかと問われれば、
一瞬も迷わずに『ノー』と応えられる。
紫苑はそんな今の自分が好ましく、そして誇らしかった。
 

確かに、望めばなんでも手に入ったNo.6での生活とは勝手が違い、
ここではネズミの手を借りなければ道さえ真っ直ぐに進むことさえない。まるで赤子だ。
そんな紫苑に対するネズミの言葉はいつも厳しいものだったが、
それが悪意からくるものでないということだけは判る。彼の言葉の裏には、
何と言うか、愛情のようなものを感じた。
 

いつだったか、それをイヌカシに話したら、思いきり笑われた。
お前は正真正銘の天然だと腹を抱えられ、全く信じてもらえなかったのを覚えている。
けど、紫苑がいつもネズミと同じベッドで寝ているという話を聞いて、
彼は目をこれでもというくらい見開いて驚いたのだ。


「マジで、あいつが他人の隣で寝てんのか?」
「そうだけど?」
「タヌキ寝入りじゃねぇのかよ?」
「いや、普通に熟睡してるみたいだけど?」
「信じらんねぇ……」
「……?」
 

その言葉が指す意味を、紫苑はその時理解できなかった。
だが、今こうして、自分の隣で気持ちよさそうに寝息を立てるネズミを目にして、
紫苑は何となくその意味が解ったような気がした。


(そうだよなぁ……。普段あれだけ他人にピリピリした態度を取ってるんだもんなぁ。
こうしてぼくの隣で無防備に寝てる姿なんて、誰にも想像つかないよね…?)
 

彼にとって、それだけ自分の存在は空気に近いものになっているのだろう。
彼にとって、自分の隣は唯一安心できる場所。そう考えれば嬉しいはずなのに、
何故か紫苑にはそれが納得いかなかった。
間近で見る彼の寝顔は、それはそれは綺麗なもので、まるでこの世のものとは思えないほどだ。


すらりと伸びた鼻筋、薄く綺麗に整った唇。
男とは信じ難い長い睫毛に、磁器のように滑らかな肌。
彼が『イヴ』と呼ばれ賞賛を浴び、多くの人々の心を魅了しているのも頷ける。


(まぁ、ぼくも、そんなキミに魅了されてしまった人間のひとりなんだけど……)
 

そんな風に思いながら、ふと、出逢った日のことを思い出す。
 

あの雨の日の夜。唐突に自分の目の前に現れて、あっという間に全てを変えてしまった彼。
だが、それも止む無しと言えるだろう。
いつだって、何処に居たって、あの日以来、紫苑の中にはネズミがいたのだから。
 

ネズミにとっても、自分の存在が特別なモノであることは確かだ。
だが、それが単なる庇護欲の対象に過ぎないことも明らかで、それが紫苑にとっては不満だったのだ。
出来ることなら、彼にとって特別な存在になりたい。
自分だけを見て、好きになって欲しい。
そんなどうしようもない気持ちが、紫苑の中でどんどん膨れ上がっていった。


「ん……紫苑、もう起きたのか?」
「あ、ゴメン。起しちゃった? 
今日はいつもより早くイヌカシの処に行かなきゃならないんだ」
「そうか……。最近、随分張りきってんな」
「でもないさ。まぁ、ホント言うと、ぼくの仕事が遅いからなんだけどね。
犬の数が多い日は、早くから仕事しないと追いつかないんだ」
「は、そりゃ、自業自得って奴だな。そろそろいい加減に手を抜くって事を覚えりゃいいのに……
ま、お前にさんにゃ無理か」
 

朝一番の嫌味も、紫苑には全く通じない。そればかりか、満面の笑みでこう切り返される。


「うん。せっかく洗うんだから、犬にも気持ち良くなって欲しいしね。
手を抜いたりしたら、それこそ犬だって気分わるいだろ?」
「犬の気持ち……ねぇ」
 

大仰にため息をつくネズミを他所に、紫苑はせっせと身支度を整える。


「それに、せっかくネズミが紹介してくれた仕事なんだ。
いい加減にやって、クビにでもなったら申し訳ないしね」
「は、いざとなりゃ、仕事なんていくらでも紹介してやるよ。
それに第一、イヌカシがお前をクビにする訳ないだろ」
「え? なんで?」
「お前、自覚ないのか? アイツ、お前のこと相当気に入ってるぜ?」
 

イヌカシが自分を気に行っている。
そう言われても全くピンと来ない。
確かにここの所嫌味が少なくなった気はするが、相変わらず人使いは荒いし、
犬よりも自分の待遇ははるか下の方に位置していると確信できる。


「あ、でも最近、お昼ご飯をご馳走してくれるようになった」
 

ぽん、と手を叩いて笑みを浮かべると、ネズミが不機嫌そうな顔をする。


「ったく、気安く餌付けされてんじゃねぇよ」
「え? でも、お昼ご飯は助かるよ? ぼくの稼ぎじゃ一日一食が限界だからね。
それに少しでも食費が浮いた方が、ネズミだって助かるだろ?」
「そりゃ、確かにそうだけどな…」


(───不毛だな。)
 

ネズミは心の中で呟いた。
目の前の天然王子に、自分の中で渦巻いている嫉妬心を悟れという方が無理というものだろう。
 

そして、そんな気持ちを持て余している自分自身にも、ネズミはいい加減うんざりしていた。
守るものと守られるもの。明日の命さえ保障できないこの場所で、
守るものを持つことがどれだけ自分にとって危険な行為なのか。
そんなことは誰に言われなくても百も承知だ。


ならば、何故自分は、こうして紫苑と一緒に暮らしているのかと自問自答する。
あの時、命を救ってもらった恩返しのため?
それとも、彼をNo.6から追われる原因を作ってしまった罪滅ぼしのため?


そんな不明確な定義に囚われて、彼は紫苑との関係に踏み込むことが出来ずにいた。
自分に向けられる、あの真っ直ぐな感情も、
自分が抱いているやり場のない感情も、その正体が何なのかということも、本当はとうに理解している。
なのに、いずれは訪れるであろう別れや、紫苑に拒絶されることを考えてしまうと、
どうしてもその事実を受け入れられない。全く歯がゆいことこの上ない状況なわけだ。
 

そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、紫苑は警戒心のない無垢な笑みを、いつでもネズミに向けてくる。


「ねぇ、ネズミ、今日は早く帰ってこれるの?」
 

出かけ間際、わざわざ後ろを振り返って問いかける紫苑に、ネズミはわざとらしく肩を上げてみせた。


「さぁな。今日の取引き相手次第だろ?」
「……そっか。じゃあ、とりあえずパンとスープは用意しておくね」
「あぁ、そうしてくれると有難い。帰りが遅ければ、先に寝てても構わない」
「うん。わかった。じゃあ、行って来くるね」
「あぁ、気をつけてな」
 

そんな当たり障りのないやり取りが精一杯な自分たちに、
ドアが閉まると同時に、どちらともなく苦笑いが浮かぶ。


「取引相手かぁ……」
 

ネズミの言葉を反復し、紫苑は大きなため息をついた。
彼がイヴとして、多くの観客にその姿を晒していると思うだけで、
胸の奥がシクシクと意味不明な痛みを発するのに、『取引相手』と聞いて、
それが何の取引なのかと思い悩まないわけがない。何か変な取引ではないことを祈りつつも、
ネズミのする取引が真っ当な取引とも考え辛い状況に、紫苑はさらに大きなため息を吐きだした。


「おいおい。何だよ、朝っぱらからその重っくるしいため息はっ!」
 

いつの間にかイヌカシのホテルまで来ていた紫苑に、
イヌカシの大仰な怒声と、犬たちの熱烈な歓迎が振り掛かる。


「うわっ、ちょ、くすぐったいじゃないかっ……あはははっ」
 

顔中を嘗め回され、彼が来るのを待ってましたと言わんばかりの歓迎に、
紫苑も思わず笑いを零す。
次から次へと犬たちが群がっては、その顔や手を舐め回す。つ
いには地面に転がって、犬たちの熱烈な歓迎を受け切れずに悲鳴を上げると、ようやくイヌカシが制止の号令を発してくれた。


「しっかしコイツら、最近は主人の俺より、紫苑に懐いてんじゃないかって思うぜ」
「そんなことないよ。ぼくは彼らの洗い屋兼友人だからね。彼らはそんなぼくに、
単に親愛の情を示してくれてるだけさ」
「友人に、親愛の情、ねぇ……」
「そう。そのとおり」
 

イヌカシの呆れ顔に、何の迷いもなく笑顔を返す。


(ネズミもぼくのこと、これぐらい歓迎してくれればなぁ。
けど、そんな殊勝なネズミ、想像出来ないか……)
 

思い巡らした想像にくすりと笑みを零すと、そんな紫苑をイヌカシがすかさずに冷やかす。


「はっ、どうせまたネズミのことでも考えてたんだろ?」
「えっ? どうしてわかるの?」
「……って、やっぱりそうなのか。まぁ、お前さんがそんな真剣な顔で悩んだり、
思い出し笑いをするなんて大概決まってんだろ。ネズミだって、
お前が絡むといつものアイツじゃ無くなっちまうしな。やっぱ、お前ら……変だわ」
「へ、変って…そんなことっ!」
「無いって言い切れんのか?」
「そ、それはっ……、ちょ、ちょっとくらいはあるというか、なんと言うか。あ、それはあくまでも、ぼくの方が変なわけで、決してネズミが変なわけじゃなくて、だからっ、その…」
 

図星を突かれて首筋まで真っ赤に染めた紫苑に、
イヌカシはさも面白そうに付け加える。


「へぇ……。じゃ、紫苑の方には少なくとも下心があるわけか。
なら、いっそのことアイツに告白しちゃえばいいんじゃね?」
「こ、告白って、そんなっ…!」
 

そんな大それたことができるはずも無い。
今だって、迷惑を承知で部屋に居候させてもらっている。
ベッドにまで上がりこんで、何から何まで世話になって。
この上彼を独り占めしたいだなんて、おこがましいにも程がある。
 

それにもし、自分の気持ちを彼に伝えることで気持ち悪がられでもしたら……。
もう彼の隣に居ることすら叶わなくなってしまう。
それが紫苑にとっては、何よりも辛いことだった。


「ぼくはネズミの傍に居られれば……それだけでいい」
「へぇ……そんなもんなのかねぇ。俺にはさっぱりわかんねぇや」
「うん。それでいい……それでいいんだ」
 

まるで自分に言い聞かせるように、何度も、何度も、繰り返し呟く。
彼の隣に居られること。傍に居ることを許してもらえること。
自分にはそれだけで十分過ぎるぐらいだ。それ以上のことを望んではいけない。
例えそれが狂おしいほどの切望であったとしても、決してそれを口にしてはいけないのだ。


「さ、仕事、仕事っ! イヌカシ、今日はどの子から洗えばいいんだい?」
「お、ようやく仕事する気になったか。じゃあ、今日はコイツからあっちにいる奴までだ」
「えっ? そ、そんなに沢山?」
「ったりめぇだ。お前の無駄話に付き合ってやったんだ。
これぐらは働いたってバチは当たんねぇよ」
「……ふぅ。仕方ないな。んじゃ、がんばりますか!」
「おう。頼むぜ」
 

頭の中に巣くった、とんでもない欲望を追い払うように、
紫苑は一心不乱に犬たちを洗い始めた。
一匹、二匹、三匹とどんどん洗い終え、気付くともう二十匹以上は洗い終えている。


「……んだよ、お前、やろうと思えばできんじゃん。その調子で明日からも頼むぜ」
「え? もしかして今日はもういいの?」
「つーか、これ以上洗ってたら、夜に客に貸し出す犬がいなくなっちまうっつーの。
今日みたいな乾きの悪い日は、これ以上無理だぜ。それよりコレは今日の分(賃金)だ」
「あ…ありがとう」
「おう。んじゃ、またな」
「うん!」
 

手にした銀貨を掌に包みこみ、紫苑はホテルを後にする。
 

無心で仕事をしていたせいか、何だか今朝方まで悶々としていた気分が嘘のように晴れていた。
今日はネズミにパンとスープを用意しておくと約束した。
いつもより僅かだが多めに貰った賃金で、これからその材料でも買いに行こう。
 

そう思って、紫苑は足早に市場へと足を進めた。
 

───すると。


(……ネズミ?)
 

イヌカシのホテルからそう遠くないバロック街の路地裏で、
ネズミが見たこともない大男と何やら神妙そうに話をしている。
一言、二言、ネズミが男に言ったと思うと、急に男が声を荒げ出す。


「だからイヴ、俺は本気でお前のことが好きなんだっ! 頼むっ! 
一晩でもいい! 俺と、俺とっ!」
 

別に盗み聞きするつもりはなかったが、男が思った以上に大声を出してネズミに襲いかかろうとしたため、
紫苑は無意識にその場へ飛び出してしまった。


「やめろっ!」
「な、何だ? お前はっ!」
 

せっかくの告白を台無しにされたのが気に入らなかったのか、
大男はもの凄い形相で紫苑を睨みつける。


「お前……、何で…のこのこと、こんなトコに出てくんだ?」
 

突然の招かざる客に、ネズミのほうも驚いたようだ。


「……あ、ゴメン。ついっ……」


(そうだった。ネズミにとっては、こんなの日常茶飯事だった。
ぼくなんかが出てきても、きっと邪魔なだけだ……)
 

酷く迷惑そうなネズミの表情を目にして、紫苑が咄嗟に誤ると、
その首根っこを捕まえた大男がここぞとばかりに威嚇してくる。


「……っつーか、お前、何イヴと馴れ馴れしく話してやがんだよ? 
ったく、気にいらねぇ奴だな! 早くどっかに失せやがれ! 
さもねぇと、二度と話ができないようにしてやるぞっ!」
 

言うが早く男は拳を振り上げ、思い切り勢いをつけて紫苑へと振り下ろした。


「うわっ!」
「紫苑っ! 危ないっ!」
 

ガツン。という鈍い音と共に、紫苑を庇って飛び出したネズミの頭に、
男の拳が命中する。


「……っっ!」
「ネ、ネズミっ!」
「うわぁ、イヴっ!」
 

男が情けない悲鳴を上げたのと同時に、ネズミの体がぐらりと揺れて紫苑の腕の中へと倒れこむ。
その額に赤い血が滴り落ちるのを見た瞬間、男は蒼褪めて腰を抜かしたようだった。


「お、俺は悪くないぞっ! きゅ、急に飛び出したお前が悪いんだっ!」
 

まるで子供のような捨て台詞を残して、男はその場から慌てて逃げ去った。


「ネズミっ! しっかりしてっ、ネズミっ!」
 

必死で名前を呼んでも、ネズミの体はピクともしない。


(大丈夫……息はある。頭部の傷も大したことはないはず。
止血だって圧迫すればすぐに止まる程度のものだ。……ただ、心配なのは……)
 

紫苑は自分のシャツを引きちぎり、でネズミの傷を止血すると、
気を失ったままの彼を背負って自分たちの部屋へと運び込んだ。
 

そしてベッドにそっと寝かせると、額から頬へと流れた血の跡を優しく拭う。


「おそらくは殴られた衝撃による、一時的な意識消失だとは思うけど……」
 

自分が変にしゃしゃり出たせいで、またネズミに迷惑をかけてしまった。
彼が好きで、ただ一緒に居たくて、迷惑をかけないように出来る限りのことをしてきたつもりだったのに、
結局自分はまたこうやって彼に迷惑をかけてしまった。


「本当は、ぼくなんか、ネズミの傍に居ちゃいけないのかもしれないな……」
 

ネズミの頬を撫でながらそう呟くと、堪え切れずに涙が零れ落ちる。
その粒がぽつりと彼の唇を濡らした。
瞬間。


「……ん、」
「ね、ねずみ?」
「……あれ? ここは……」
「良かった。ネズミ、気がついたんだね?」
 

潤んだ瞳で心配そうに問いかけると、紫苑の顔をまじまじと見つめたネズミが、今度は真顔でぽつり呟く。


「……お前、誰だ?」
「……え?」
 

まるで見知らぬ他人を見上げるような冷たい眼差しをしたネズミが、今、紫苑の顔を黙って見つめていた。










≪あとがき≫

こちらは、No.6のプチオンリー用に書き上げた同人誌のプレヴューとなります。

さて、記憶を失ってしまったネズミと紫苑は、この後どうなってしまうのでしょう?
切ないけど、甘い甘いストーリーに仕上がってます♪
モチロン、18Rならではのラブラブシーン盛りだくさんです(*´w`*)★
是非、お手にとってご覧になってくださいww







                                     
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No.6

〜聖なる夜に誓いのKissを〜

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